レポート

国際メディア論特講
 「メディアはメッセージである」の意味を解説し、「ホットなメディア」と「クールなメディア」の相違を詳述せよ。

はじめに
 「メディアはメッセージである」というのは、電子工学の時代を考えると、完全に新しい環境が生み出されたということを意味している。この新しい環境の「内容」は工業の時代の古い機械化された環境である。新しい環境は古い環境を根本的に加工しなおす。それはテレビが映画を根本的に加工しなおしているのと同じだ。なぜなら、テレビの「内容」は映画だからだ。いま、テレビがわれわれをとり巻きながら知覚されていないのは、いっさいの環境がそうであるのと同じである。われわれはその「内容」すなわち古い環境にしか気づいていない。機械生産が始まったばかりのころ、それは徐々に新しい環境を生み出したけれども、その「内容」は農耕生活という古い環境であり、技芸であった。

1.「メディアはメッセージである」の意味は
 1960年代にマクルーハンが注目されたとき、彼は活字文化の終焉を促進し、テレビ時代を擁護している人物だ、と多くの人が考えた。しかし彼は、テレビという新しいメディアが強い力を持つことに注意を呼びかけていた。テレビは「臆病な巨人」だと公的に発言し、その力を知る必要性を主張していたのである。
 「メディアはメッセージである」。そう言い放つことで、マクルーハンは、「メディア」と「メッセージ」に関する私たちの認識の再検討を迫る。彼が「メディア」という言葉を拡大解釈し、それが私たちが通常に理解する意味をいかに超えていたかについては今確認したばかりだが、彼の「メッセージ」も同様である。私たちは「メッセージ」を「内容」や「情報」といった意味にしか定義しないが、それではメディアの最も重要な特徴のひとつを見落としてしまうとマクルーハンは指摘する。「メッセージ」とは、人間関係や行動の方向と機能を変える力である。そこで彼は、ひとつのメディアの持つ「メッセージ」を社会や文化においてそのメディアが引き起こす規模・速さ・パターンの変化として再定義する。
メディアをまず「ホット」と「クール」に分類するマクルーハンの発想は、「精細度」と「情報」という言葉の特別な意味に基づくが、それ以上に、私たちの身体感覚に基づいているのだ。彼はテレビの技術に関する専門用語を借用し、精細度を論ずる。それは2部構成の物語だ。

2.「ホットなメディア」とは
 テレビでは「高精細度」とは、精細度が高く、鋭利で堅いなど、視覚に関するものを意味する。そこでマクルーハンは、アルファベット、数字、写真、地図などは精細度の高い対象と考えた。よって、高精細度のメディアは、与える情報は多く、受け手はほぼ何もしなくてよい。そして高精細度はホット、例えば、ラジオ、活字、写真、映画、講演などが分類される。

3.「クールなメディア」とは
 形や輪郭や姿があり明確でないもの(スケッチや漫画など)は、「低精細度」だ。これらの場合、私たちの目は、見えるものを走査し、欠けているものを埋めて「完全な画像を得る」。この「空白を埋める」原則は、音のも適用される。よって、低精細度のメディアは、情報は少ないが、欠けているものを補うために受け手を働かせる。低精細度はクール、例えば、電話、話し言葉、漫画、テレビ、セミナーなどが分類される。

まとめ
 この書は、さまざまのメディアの本質と、それが生み出されるときの相剋、また、それが生み出すことになったらさらに大きな相剋を理解することにある。メディアにとって重大なのはその内容でなく、メディアそれ自体である。これをマクルーハンは「メディアはメッセージである」と言う。それがきっかけになって人間の世界に引き起こされるスケール、ペース、パターンの変容の重大さが、普通いわれるメディアの内容などの比ではないのである。その上、メディアは人間自身の外化した環境であり、ということは人間自身であるということでもあって、普通自覚されにくい。ここがむずかしいところである。
 メディアは中性であるとする常識がある。功罪は用い方次第だというわけだ。人間は自覚しないままに自身の生み出したメディアによって変えられてしまう。それに対処するすべはない。さしあたって、唯一の対処は、それをよりよく理解することだと言うのである。
参考文献
メディア論―人間の拡張の諸相