地域まちづくりー事例ー


地域産業の再生―三重県の事例―

 三重県は、人口約187万人(平成17年国勢調査)で、豊かな自然と温暖な気候に恵まれた農林水産業、そして名古屋圏や大阪圏に近い恵まれた地理的条件を活かした工業が盛んな地域である。
 三重県では、県の総合計画である「県民しあわせプラン」を平成16年度に策定し、その中で産業政策の主要な柱の一つとして「戦略的な企業誘致」を掲げている。そして、現在、三つのバレー構想が推進されている。バレー構想とは三重県内の産業構造を国際競争に打ち勝てる多様で強靱なものにするための産業政策で、県内の産業集積を活かし、より一層の集積を図る戦略的な取組である。具体的には、クリスタル(液品をはじめとするフラットパネルディスプレイ)、メディカル(医療・健康・福祉)、シリコン(半導体)の三分野で、現在、構想が進められている。

1. クリスタルバレー構想
 平成12年度から推進されているクリスタルバレー構想であるが、この構想の核企業であるシャープ?の亀山市への工場誘致はその代表的なものと言える。この構想の基本理念は、「三重県に液晶をはじめとするFPD(フラットパネルディスプレイ)産業の世界的集積地をつくることで、多様で強靱な産業構造を形成し、魅力ある地域づくりを目指す」ことであり、県は、そのための取組を「クリスタルバレー構想推進プログラム」として取りまとめ、構想の実現に向け、戦略に取り組んでいる。

2. 戦略的な企業誘致活動
 三重県は、県が行う企業誘致施策を体系化するため、平成15年「三重県企業立地促進条例」を制定し、これをもとに、各種施策が積極的に実施されている。中でも限度額を90億円とする誘致企業への補助金制度や、時間重視のワンストップサービスなどは、これまでにも話題となったことがあるが、これら施策の積極的な推進により更なる集積に向け誘致活動が展開されている。
 実際に三重県のFPD関連産業の集積状況を見てみると、シャープ?とそれに関連する企業の集積が多く見られることが特徴としてあげられる。ガラス基板、偏光板関連、フィルム、製造装置関連及び液晶パネル組立関連工程など様々な業種の集積が進み、平成18年10月現在の集積数は、67社76拠点となっている。
 そして、集積が進む三重県では、地域外からの企業誘致によるこの外発的発展を次のステージである内発型発展へと成長させていく時期にあると考えられる。


平成の合併中小都市の現状と課題―愛知県田原市の事例

1. はじめに
 人口減少と少子高齢化が先行に進むべき都市としての機能は、どうなのか?歴史と文化もあることではあり、田原市の行政の現状はどうなのかを見てみようと思う。昔は赤羽根町においては電照菊の町、サーフィンの町などが知るかぎりは日本一ではないかと思っている。
一度は行って見たい街ではないでしょうか?

2. 中小都市としての機能はプロフィール
 この地域には、吉胡・伊川津・保美の三大貝塚をはじめ、数多くの縄文遺跡が点在しており、いにしえの昔から人々の生活が営まれてきました。奈良時代からは製塩が、また、平安時代末期から鎌倉時代にかけては、やきもの(渥美焼)が盛んとなり、中世における窯業の一大産地を形成しました。
南北朝の争乱期から戦国時代になると、それまで伊勢神宮領が大部分であった渥美半島でも、公卿領、さらに戦国国人層の所領へと徐々に支配の形態が変化しました。


原城
文明12年(1480年)頃、田原城を築いた戸田氏は、一時、渥美半島全域と知多半島の南半分を領有しましたが、天文16年(1547年)には、今川義元、永禄8年(1565年)には、徳川家康の攻略を受け、その支配下となり、天正18年(1590年)には、東三河一円を領有した吉田城主池田輝政に統治されることになりました。
江戸時代になると渥美半島内は、藩領・旗本知行地・天領(幕府直轄領)・寺領が入り組んで存在しました。田原城を中心とする田原藩は、寛文4年(1664年)には、三宅康勝が田原城主となり、以後、三宅家が12代にわたり1万2千石を領有しています。
なお、幕末の先覚者、画家として有名な渡辺崋山は、田原藩の家老職にありました。一方、元禄元年(1688年)には、大垣新田藩が戸田氏成によって成立し、市内福江町にあたる畠村に陣屋を構え、そのほかにも旗本清水氏・諏訪氏・本多氏などの支配が明治維新まで続きました。(注1)



渡辺崋山
明治初年(1868年)、現田原市の地域には、59の村(田原:31村、赤羽根:6村、渥美:22村)が存在していました。その後、明治4年1871年)の廃藩置県、改置府県により、渥美半島における全村は額田県の所属となり、翌年には現在の愛知県の所属となりました。
明治11年1878年)の郡区町村編成法の公布時までには、41の村に集約され、さらに、明治22年(1889年)の愛知県における市制町村制の施行時までに15村へと統合が進みました。(明治の大合併)
明治38年(1905年)、愛知県が町村合併計画を公表しました。これを契機に翌39年には豊橋市渥美郡が分離し、田原地域は杉山村、田原町、野田村、神戸村の4町村となり、赤羽根地域では赤羽根村が誕生し、渥美地域では、伊良湖岬村、泉村、福江町の3町村に再編されました。
昭和に入り、戦後、地方自治法の施行を経て、昭和28年(1953年)には、町村合併促進法が施行されました。これを受けて昭和30年(1955年)1月には田原町、野田村、神戸村の合併により田原町が新設され、同年4月には、田原町が杉山村(現豊橋市)の一部であった六連地区を編入することにより、今回の合併前の田原町の区域となりました。同じく同年4月、伊良湖岬村、泉村、福江町の合併により渥美町も誕生しました。(昭和の大合併)。また、赤羽根村では、昭和33年(1958年)に町制を施行して赤羽根町となりました。
その後は、田原・赤羽根・渥美による3町の時代が50年近く続きましたが、合併特例法の改正を背景としたいわゆる平成の大合併により、平成15年(2003年)8月20日田原町赤羽根町編入合併するとともに市制施行を行い、田原市となりました。さらに、2年後の平成17年(2005年)10月1日、渥美町編入合併により新「田原市」が誕生しました。(注1)

ふるさとの特色
注1田原市公式ポームページ沿革引用。http://www.city.tahara.aichi.jp/city/profile/history.html
2008年2月22日