レポート

国際政治論特講
国際関係の解明は近代的力学世界観の誕生とともに始まった。その取り組みが時代並びにその国際環境の推移とともに、その分析手法は現時点までどのような変容と遂げてきたかについて、方法論上の視点に立脚して記述しなさい。

はじめに
 
国際関係は、ヨーロッパ国際システムの下に成長し成熟してきた。それは、近代国際システムの発達であって、それ以前にも国家間関係は存在していた。
非ヨーロッパの国際関係には、同じ関係状態は、非ヨーロッパの中国にもみられた。中国の古典には、かかる独立国家という政治体の間の関係について記述がある。
分析手法は現時点までには、外交といった変容を遂げてきた、その中でも日本の外交について、その方法論上の視点に立脚して述べていきたい。

1.外交論とサミット方式
外交とは、「交渉による国際関係の処理であり、大公使によってこれらの関係が調整される方法であり、外交官の職務あるいは技術である」と定義したのは、英国の外交官ニコルソンであった。外交は、対外政策ないし外交政策と区分され、外交政策は外交の1つの手段である。外交論は、かかる外交について包括的に交渉の展開、外交制度、およびその技術を検討し検証することを、その領域としている。
そして、その現代的形態がサミット外交であり、それは、首脳外交の新しい形式でもある。
カニエールとニコルソンの外交論、外交史家の寄与、民主外交、古典外交から新外交へ、首脳外交、サミット外交、ムシャワラ外交、外交空間、タンガラジャンの交渉の科学のように、外交論/サミット方式の方法がある。
 カリエールとニコルソンの外交論では、ルイ14世に仕えたフランスの外交官カリエールは『主権者と交渉する方法について、交渉の効用、大使と派遣使節の選択、ならびにこの仕事で成功するために必要な資質につて』(1716年)を著し、そのなかで絶対君主国家間における外交の効用と外交官の役割、つまり、彼の表現によると、「主権者と交渉する技術」について、論述している。これらは、外交論の先駆に位置づけられる。また、英国の外交官サトウの『外交案内』(1917年)も、外交実務について言及した。英国の外交官ニコルソンは、その著『外交』(1939年)で、外交方式の変遷を整理し、外交官の性格を明らかにし、専門外交官による外交の推進の役割を強調した。のち同書の新版(1963年)になかで、彼は、モーゲンソーら米国の国際政治学者が外交と外交政策を混同して用いていることを批判し、外交政策ではなく、純粋な外交論が必要である、と指摘した。英国の国際政治学フランケルの『対外政策の決定』(1963年)は、外交政策決定をめぐる分析次元の整理についての1つの試みといえる。また、日本の外交史家坂野正高の名著『現代外交の分析情報・政策決定・外交交渉』(1972年)は、外交の本質を解明し、外交官と外務省、情報処理、外交の政策決定の実践的かつ本格的分析である。
 実際、明治23(1890年)、ときの日本総理山県有朋の意見書「外交政略論」は、日本外交における主権線と利益線の確認において、1つの外交指針を示したものであった。さらに、最近、香港で、『世界謀略大全』叢書の1冊として『外交方略』が刊行されるほどに、外交の役割は、依然関心が大きい。
 実際、ニコルソンが『外交』(1939年;1963年)のなかで、区分した旧外交と新外交の相違は、外交官が代表している政治体制の違いを確認したところにあった。それは、近代民主国家の成熟による変化である。その政治体制が新しい外交方式に影響を与える要因として、彼は、次の3点をあげている。
(1) 諸国家が一つの共同体を構成しているとの感覚が増大してきていること。
(2) 世論の重要性が次第に認識されてきていること。
(3) コミュニケーションが急速に発達してきていること。

2.日本における外交
 日本の場合は、憲法によって戦うことを禁止されているし、集団的自衛権の行使もできない政策をとっているから、外交交渉に軍事力を使うことができない。
 第二次世界大戦後の日本は、こと安全保障の問題に関してはすべて米国任せという国家体制が戦後60年近くも続いてきた結果、日本の外交官は軍事問題や安全保障にかかわる問題からは一切逃壁をしてきた。つまり、外交交渉術の第三の方法「相手を脅して譲歩させる」を放棄してきたのである。
 戦前よりみじめな日本の「外交」、もともと、大陸諸国との交流がなく外交の経験に乏しい日本人は、外交の本質というものを全く理解しないまま国際舞台へ躍りでてしまったために、交渉で巧みな外交や、したたかな外交といえるような経験を積み上げてきていない。
 たとえば、豊臣秀吉は国内では見事な外交交渉術で相手を翻弄し、あるいは自家薬籠中のものとしてせいこうさせるが、朝鮮や明国との交渉になると、日本人を相手としたような交渉術が全く通用しなかった。
 明治維新後、最初の外交は1869年に宗重正を朝鮮に派遣して通好を求めるものであったが、事大主義に固まる朝鮮からは相手にされず、逆に罵倒されて追い返される状態が6年間も続いた。次に1971年には岩倉具視の大使節団が、幕末、列強との間に締結した不平等条約1854年)を正常に復すべく、条約改正交渉のために欧米諸国へ派遣されたが、近代社会の現状のあたりにして驚愕し交渉そっちのけで見学するに止まった。
 日本と北朝鮮との正常化交渉が2002年秋からはじまっているが、この交渉の場に出てくる北朝鮮の代表者は、もしも自国の主張が通らずに妥結した場合には、彼ら外交官は職を失うのみならず刑務所に投獄されたり、家族は強制収容所に入れられて一般社会から抹殺される運命にある。
 下手をすれば、交渉失敗者は秘密のうちに死刑とされてしまうのである。いきおい交渉に臨む気構えは、能天気な日本の外交官とは運泥の差である。
 それゆえ、北朝鮮の核開発やノドンの脅威、そして日本人拉致問題を解決するために、2003年以来、日・米・露・中・韓・北朝鮮の六カ国協議を進めているが、協議は進展しないため日本も米国ももっぱら仲介役の中国に期待をかけている。
 現代外交の最大の問題点は、サミット方式を超えて新たな国民外交が行われようとしている。日中の歴史認識靖国神社問題がある。

おわりに
 こうした外交は、外交論とサミット方式、日本における外交の例をとってみても、外交といった変容を遂げてきた。なかなか進まないのが現状である。いろんな方法をとってみても、問題が多いのが、現実である。

参考文献
1. 浦野 起央著(1997、2004年7版)「国際関係理論史」勁草書房

国際関係理論史

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